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《東方陽熹言道録》

 

二一一、衆生の平等は一人一人の心中の傲慢を除くことに依る(图)

作者:東方陽熹 翻译:妙慧 李春紅

 

 

  

 仏教だけが傲慢を罪悪と見なすのではなく、キリスト教の七つの大罪においても、傲慢は最初に並べられている。なぜなら、傲慢は人と道を隔絶させるだけでなく、平等の心を失い、良知を失わせるからである。それだけでなく、差別、いじめ、弾圧などのあらゆる罪悪へと変わっていくのだ!

 傲慢はほとんど凡ての人々において様々な形で体現されており、とりわけ視野が狭く愚かな人ほど驕り高ぶっている。たとえば、人類は動物に対して支配の傲慢が存在している。権勢を持つ者は、一般民衆に対して権力の傲慢が存在している。裕福な者は、貧乏な者に対して金銭の傲慢が存在している。高学歴の者は、低学歴のものに対して学識の傲慢が存在している。成功者は、失敗した者に対して勝利の傲慢が存在している。容貌の美しい者は、容貌の醜い者に対して容姿の傲慢が存在している。強大な者は、弱い者に対して軽蔑の傲慢が存在している。順調に過ごしている者は、困難な局面にいる者に対して得意げになる傲慢が存在している。能力のある者は、能力のない者に対して見せびらかす傲慢が存在している。賢者は、愚者に対して見下げる傲慢が存在している。

 善行をなす者は、人々に対して功徳の傲慢が存在している。教えを広める者は、教えを聞くものに対して尊大の傲慢が存在している。布施をなす者は、布施を受ける者に対して人より優れていると思う傲慢が存在している。人を助ける者は、助けられている者に対して見返りを求める傲慢が存在している。都市に住む人は、農村に住む人に対して優越の傲慢が存在している。出家した者は、在家居士に対して気高いと感じる傲慢が存在している。法師は信者に対して学問の傲慢が存在している。

 仏教を学ぶ者は、普通の人に対して非凡の傲慢が存在している。男性は、女性に対して権勢の傲慢が存在している。成人は子供に対して権威の傲慢が存在している。最下層にいる人々でさえも、地域、人種、国家の傲慢が存在しており、よそ者に出会うとよく「我々中国人は、北京人は、山東人は…」などと言いだし、「君を北京で/山東で居られなくしてやる」などと、まるで自分がその国家や都市の主人かのように振る舞うのだ。実のところはこの土地において、正味、他人にアルバイトをすることでやっとご飯にありつける労働者でしかないのに、そもそも自身が田舎から都市にやってきた者であるのに、何の資格があってこのような言い方ができるのだろうか?この土地、この都市、この国はあなた個人のものであるのか?自由な人口流動が許されている今日において、あなただけではない、市長、省長でさえそのような話を人にする資格はないのだ!

 もし細かい部分から話し始めるとすれば、他人に対し見せびらかし、優越感を持つことは、内心の傲慢から来ているのだ!我々は他人に自身の信仰、観念や助けを受け入れるように迫る。これも、一種の傲慢である。

 仏は「諸法無我」、「衆生平等」とおっしゃった。人類の一切の智慧、発明、創造、財産はすべて天の恩賜によるものであり、世の中の一切は上帝が現れたものである。いかなる人、国家、人種も傲慢の心を持ってその他の衆生に接するべきではないのだ!

 この世界において、衆生が必要なのはより多くの同情、理解や助けであり、差別やいじめ、弾圧ではない。

 我執と傲慢は、我々は自身が他人より高貴で、別人より重要であり、他人はもっと自分を重視し、尊重し、奉仕し、優遇するべきだと勘違いさせてしまう。実はこれが不平等であり、相互の尊重を失い、差別と罪悪の道を歩みだす始まりとなってしまう。あるメディアがこのような出来事を載せていたのを覚えている。英国国王エドワードが、ロンドンのスラムを視察したときのことだ。彼は歪な形をした家の門の前で、中に居るとても貧しい老婦人に対し、「お邪魔してもよろしいですか?」と声をかけた。ある人はこれを優雅な貴族精神だと言ったが、このように言う人は一体何が分かるのだろうか。このような平等と尊重は、外での学習を通して得られるものではなく、一人の内心の道徳教養と高貴な心から来るものであるのだ!

 我々一人一人が平等や、他人の尊重を受けること、同情や関心を得ることを渇望している。しかし、我々が差別と不公正な待遇を受けていると同時に、他人に対してかえって傲慢な心で接している。このような衆生の間の嘆き悲しむべき因果の循環に、どうして心を痛めず涙を落とさずにいられようか……。

 「衆生平等」は仏教の神髄であり、それが仏教の核心の思想と基本理念となったのも、「衆生平等」が体現しているのが天性、真理と良知だからだ!もし傲慢を除くことが出来なければ、平常心と平等の心を持つことが出来ない。平常心がなければ、内心の平穏を手に入れることができない。また、平等の心がなければ、誰彼の区別を持たずに平等に扱うことが出来ない。仏を学ぶ者として、慈悲の心と平等の心がなければ、全くもって佛陀の弟子とは言えないのである!このような虚偽の修行者が口酸っぱくして「衆生平等」を語る時、まずは自身が平等心を保つよう、心にある傲慢を見直し取り除くことから始めるべきなのだ。

 我々が深く考えれば発見することであるが、世の中の一切の不平等、差別、弾圧はすべて人間の心の中の我執と傲慢から来ているのである!したがって、人間が自身の傲慢を取り除かなければ、平等も存在しない。平等がなければ、社会は真の公平や正義を実現することができない。この世において永久的な平和を実現し、真に公平で正義で、平等で博愛な大同社会を叶えるためには、傲慢によって傲慢に打ち勝ち、強権によって強権にすり替わるのに頼るのではなく、一人一人が身を修め、己に克ち、我執と慢心を取り除きくことが必要である。

 

執筆:2017年11月08日
アップロード:2017年11月10日

 

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