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《東方陽熹言道録》

 

二一三、何が真の放下であるのか?(图)

作者:東方陽熹 翻译:妙慧 李春紅

 

 よく仏法を学ぶ者が私に対して、「私は何年も学んでいるのに、こうも放下(一切の執着を手放すことが)できないとは!」と言う。人々がこのような考えを心に持つ限り、本当の解脱を手に入れることは不可能だ。それは一種の二元論だからである、つまり、人々が幻相を真実だと思いこみ、全てが実際に存在すると見なした時、能悟所悟(自分が悟ることが出来ることと悟り得たこと)及び能証所証(明らかに出来ることと明らかにし得たこと)、煩悩や解脱、輪廻や涅槃という心がある時に、このような問題や煩悩が生まれるのであるからだ。

 六祖慧能大師曰く、「起修皆妄動」である。己の心がすなわち涅槃であり、すなわち仏であり、すなわち西方であり、また、原来自在であり、原来解脱している。もし人々が一切の執着や妄想を手放すことができるなら、凡てを捨て去る必要は無く、直ちに解脱を得て、涅槃に達する。人々が、修と非修等あらゆる分別の妄想を生み出す時、人々は道、真主、上帝、極楽世界とは隔てられてしまう。

 佛陀曰く、「凡所有相,皆是虚妄」、「諸法無我」であり、六祖慧能曰く、「本来無一物」である。自身を含む一切の存在は、すべて「本空本無」の幻相であり、もともと存在しないものについては、最初から手放せる、手放せないという問題は存在しないのである。それは、ある人の心に幻覚が生まれて、手の内にとても貴重な物を抱えていると思いこみ、両手を下してしまえばそれを無くし壊してしまうことを恐れるのと同じである。その人は寝言を言うかのごとく、他人に会っては「私はどうしても手放せない、どうしても手放せないのだ!」と言う。実はその人が手放せないと思っている物が、皇帝の新しい衣装と同じく、原から存在しないとも知らずに。

 覚えておこう。一切の障碍は、原から存在しない事物の上に存在するわけではなく、それは人々の心の中にしか存在することができない。そして己の心も空性であるため、全ての苦痛や煩悩は自身が生み出した幻想でしかないのだ。

 仏の言う「放下」とは、人々に事物の非現実性を見破らせ、心の内からあらゆる欲や執着を手放させるものであり、単に形式上の放下を指しているわけではない。仏法を学ぶ者は、諸法の実相を悟り、全てがみな己の心によって現れる幻相であると理解することでこそ、心のうちから本当にあらゆる欲や執着を手放し、解脱を得ることが出来るのである。もしある人が、心のうちから本当にすべてを看破し、手放したならば、外に存在する一切の有無がその人にとって障碍となることは無い。逆に、ある人が心のうちから諸法の実相を悟っていなければ、外を取り巻く一切を手放したとしても、依然として自在と解脱を手にすることが出来ない。

 今時の仏法を学ぶ者は、「放下」に対して三つ誤解している。一つ目は、自分が手の内にあるすべてを手放し、家庭や事業を捨て去ることでやっと解脱を得られると思い込んでいることだ。二つ目は、自分が手放すものが多ければ多いほど、手に入れられるものの多くなると考えていることだ。三つ目は、身命と家庭を捨てることで、精神上で超人的な智慧や能力を手に入れ、人を驚かせ、頭角を現すことを願うことである。

 一つ目の誤解を持つ人は、「一切法空即是菩提(一切法は因縁によって生じたもの、実体のない幻相である、だから一切虚幻执著を断ち切ったら誰でも悟りに至ることができること)」であるとは知らない。己と己の手の内にある全ては、みな実体のない幻相である。虚を本当だと思い、幻を真実と見なし、それらに対し偽りの執着が生まれるからこそ、外を取り巻く全てが障碍になりうるのである。断際禅師曰く、「凡そ人多く境に心を礙(さ)えられ、事に理を礙えられると為して、常に境を逃れて以って心を安んじ、事を屏(しりぞ)けて以って理を在らしめんと欲す。乃ち是れ心が境を礙え、理が事を礙うることなるを知らず。但、心をして空ならしめば、境自ずから空なり。但、理をして寂ならしめば事自ずから寂なり。逆しまに用心すること勿れ。」と。これは、あらゆる事物が己の心の清浄や解脱を邪魔しているのではなく、己の心が手放せず、見破ることが出来ず、事物を邪魔しているということを指している。

 二つ目の誤解をしている人は、大部分が邪師や邪法のたぶらかしを受け、自身が布施をすればするほど、得られる見返りも多くなると思いこんでいる。もしくは、自身が人間界で手放したものが多くなればなるほど、手に入る仏果もより高くなると思いこんでいる。実際、このような人は多くても福を修めるぐらいであり、仏法を修めているとは言えない。彼らは、仏法を学ぶ真の目的が生死の輪廻から抜け出すことであり、その唯一の方法が諸法の実相を悟り、すべての幻相や幻覚から覚醒することだと知らない。逆にこの人たちのやり方は、夢を造り、いつか自分がより良く、より甘美な夢を見るのを願うに等しく、覚醒するわけではないのだ。

 三つ目の誤解をしている人は、多くが野心を心に持つ者である。このような人は社会において大部分が失敗しているか、もともと何も持っておらず、山奥に駆け込み、仏法の修行を通して、一般の人には手に入らないようなものを得ようと望む。このような者は根が真面目ではないので、一切の煩悩や欲を捨て去ろうとする誠の心を持っていない。加えて、正法や修行の要諦を得られていないため、彼らは通常以下の三つの結果に終わる。一つ目は心身が錯乱の状態に陥り、二つ目は道半ばで諦め、三つ目は絶望して自殺をする。今日の終南山における大多数の修行者は、基本的にこの類の者である。

 岡波巴大師曰く、『師から以心伝心、直指人心、見性成仏との心法を得た後に、我々は気づくべきであることは、すべての事物に手放すべきもの等はなく、これらがみな「心の変化」でしかないことである。』(『岡波巴大師全集•珍珠之鬘』より)

 「三界唯心,万法唯識」、すべては原から存在していないのに、あなたは何を手放すのか?『指月録』にはこのような話が記されている。『世尊は黒氏梵志が合歓と梧桐の花を捧げたので、仏は仙人を召し、全てを放下せよ!と仰いました。梵志は左手に持った一株の花を手放したが、仏はまた仙人を召し、全てを放下せよ!と仰いました。梵志はまた右手に持った一株の花を手放したが、仏はまたもや仙人を召し、全てを放下せよ!と仰いました。梵志は、「私は今両手が空いているのに、なぜ更に手放すことを教えるのですか?」と言った。仏曰く、「私は汝に花を手放すことを教えているわけではない。汝が外六尘、内六根、中六识を手放し、全て手放して何処にも捨て去るべきところがなくなる時、それが汝の本性と現れる。」と。梵志はその言葉から無生忍を悟った(すなわち八地菩薩に達した)。』

 これにより、仏の言う放下とは、人々の手の内にあるものではなく、心の中の執着や妄想に対するものであると分かる。もし人々が事物の非現実性を見破ることが出来なければ、三界唯心を知らず、諸法の実相を明らかにすることが出来なければ、たとえ全財産を捨て、自身の生命さえ捨てたとしても、悟りと解脱を得ることはできない。孔子が、「天下や国家を分け与えることができる。職位も辞することができる。白刃の上を踏むこともできる。ただ、中庸は無理だ。」と言ったのも、この道理であるのだ。

 『大般若経』曰く、“無所得,即是得。以是得,無所得。”である(無所得者は、本性が満ち足りているために、原から何も失っていない。人々がこの道理を悟ることが、真に「得る」ことである。すべてにとって、自性、菩提、涅槃、極楽、大道は本来自在で平等な物である。惑わされている時も何も減損しておらず、悟りを開いた後も何も増えていない。悟った者は本来に立ち返っただけであり、何も失いもせず得もしない。これが、「無所得者」と言われる所以である。)と。以前、ある禅師が悟った後、他の人が彼に何を得たか聞いた。彼は言った、私は原から何も失ってはいない!

 昔から、真理を悟った者は全て、「一無所得,万法皆空」(私は何も得ていない、全てはもともと存在しない)と口を揃えて言う。

 人々がすべてを実在するものと思いこむからこそ、手放すか手放さないかという問題が存在するのだ。真にすべてを見破る大修行者から言えば、分相応に日々を過ごすだけであり、原から手放すか手放さないかといった葛藤は存在しないのである。

 これから仏法を学ぶ者は、もう私に「あれもこれも手放せない」とは言わないでおくれ。なぜなら、手放せないと思いこんでいるものはもともと存在しないからだ!貴方は、まだ真理を完全に明らかにしておらず、諸法の実相を見破っておらず、偽物を本当だと見なし、幻を真実だと思いこんでいるだけなのだ。様々な非現実的な執着を抱えているからこそ、あれもこれも手放せないと思いこんでいるのだ。もし貴方が本当に諸法の実相を悟ったならば、名誉ある富裕な暮らしを過ごし、日々遊び暮れたとしても、貴方の修行に対して一切障碍となり得ない。どうしてこのように言えるのか?それは心の外にある一切はもともと存在しないからだ!一切がもともと存在しないのであれば、どうしてそれが悟りを開いた者の心に影響を及ぼすのであろうか?

 宗教の変遷により、佛陀の言う「放下」は、今日において一部の者が人々を惑わし、財産をだまし取る口実となってしまったのだ!古くから、一句も仏法に沿っていない、無責任な「放下」という言葉が、どれほどの人々を破産させ、家庭を散り散りにし、そればかりか人命が無くなる原因となっただろうか!陳暁旭という者が有名な一例であるが、彼女は生前に事業を捨て、金銭を捨て、家庭を捨て、治療を捨て、結果はどうなったであろうか?

 达摩祖師曰く、「もし本性が見えていないのであれば、十二部の経典を説いたしても、全て魔による説法であり、魔の家人となり、仏教の弟子とはならない。」と。まだ諸法の実相を悟っておらず、本性が見えていない人たちは、そもそも他人に教えを説く資格など無く、もっとも他人に「放下」の二文字を言うなど相応しくない。それは、第一に、何が真の放下であるのかを知っているのか?第二に、自身は果たして手放しているのか?第三に、もし人生の全てを手放したとして、事業、家庭、財産などを含む、その者に悟りと解脱を得ることが出来ると保証できるのか?もし保証できないのであれば、そのような説法は無責任な偽りと嘘でしかないのだ!

 すでに諸法の実相や本性を悟った者から言えば、それらの者が仏教を学ぶ者に対してどんなに精神上、あるいは形式上手放すことを勧めたとしても、それは仏法に適っている。そうだとしても、善知識が誰かに対して、家庭や財産、仕事や事業を捨てよと勧めているところは滅多に見かけないだろう。それは彼らが、大多数の人にとってたとえ形式上手放したとしても、必ずしも成果を得るとは限らないと深く理解しているからだ。ある者が諸法の実相を悟ることができず、真に見破っていなければ、真の放下を果たすことも不可能であるからだ。心のうちで手放すことが出来なければ、形式上手放したとしても、かえって心のうちに更なる苦痛や矛盾、葛藤を生み出してしまう。

 もし本当に善知識が、貴方に対して形式上手放すべきだと勧めてきたならば、それはきっと貴方が現世において成果を得る可能性があると考えているからだ。そうでなければ、通常は仕事や生活の中でゆっくりと理解を深め悟っていくことを勧める。つまり、善知識の説法は人によって異なり、何か個人の目的や企みを持っておらず、一切の偽りや嘘もなく、説法を聞くものに対して完全に責任を負うからである。逆に、何か企んでいる者たちは、通常何の責任も負わずに他人に全てを手放すことを教唆する。それは彼らが全てを手放し、一切の逃げ道を断ってこそ、その者に死ぬ気で従わせ、自身の財産や生命までも差し出させることが出来るからなのだ!

 人々が真に全てを手放し、最終的に彼らが約束した西方極楽浄土へ往生できなかった時、彼らはかえって人々にレッテルを貼りつける。それは、かつてある者たちが陳暁旭に対して、前世の業が重すぎる、真に手放していない等と言って侮辱したように。永嘉大師曰く、「了即业障本来空,未了応須返宿債」である。これは前世の業というのは実際にあるわけではなく、人々が諸法の実相を悟っておらず、心の中に依然として虚偽の執着を抱えているために、業に振り回されているということを指摘している。

 私本人としては放下を否定している訳ではなく、ただ何が真の放下であるのかを述べているだけである。実際、一般の人々にとって何かを持てばそれに執着が生まれる。そのため、仏法を学ぶ者に対して形式上の事物を手放すように諭すのも理に適っている。ただし、形式上の放下は必ず心の内の欲や執着を手放すためにするのであり、ただ形式上全てを手放したとしても心の内の欲や執着が依然として存在するならば、その行為は何の真の意義を持たない。逆に、もし一人の心の内で真に諸法の実相を悟り、一切の欲や執着を手放すことができたなら、外を取り巻くあらゆる事物の有無は真の障害となり得ない。なぜならば、「本来無一物」、「諸法無我」であり、一切はもともと存在していないからである。「私」でさえ存在しないのであれば、何を手放すのだろうか?どこから障碍が来るのだろうか?よって、ある人が真に全てを手放しているのかどうかを判断する際は、外にある物質的な財産や家庭、貧富貴賤とは何の関係もないのである。

 人々が事物の非現実性を見破ることができず、「三界唯心,万法唯識」を知らないのであれば、手の内にある全てを捨て去ったとしても、悟りと解脱を得ることができない。逆に、ある人が心から真に見破り全てを手放したなら、何人もの妻や妾が周りに侍り、贅沢の極みを尽くしたとしても、心配することはない。多くの祖師がその大徳ゆえにこの理を言い明かすことを望まないのは、第一にそれが最初から何も手放したくない者の口実になり、更に欲や執着が増すことを恐れるからであり、第二にこの理が邪な心や別の企みを持つ人々に悪利用されることを恐れるからである。

 もし貴方が自分はすでに全てを手放したと考えるなら、それは幻覚である。なぜなら、最初から貴方が真に持ったものなど存在しないからだ。そのため貴方が真に何も手放せないである。貴方が手放したと思うのは、非現実的な欲や執着でしかない。もし貴方が自分は何も手放せないと考えるなら、それは幻覚である。なぜなら、貴方が思っているものはもともと存在していなく、貴方は非現実的な欲や執着を抱えているだけであるからだ。

 

執筆:2017年11月26日
アップロード:2017年12月2日

 

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